2009年3月11日水曜日

Actor Networkとしての科学

・科学的事実は社会的に構成されたもの⇒科学的知識を関係性のプロセス(人間,事物,物理的環境の相互作用のプロセス)の結果として理解しよう!
・Bruno Latour, "Science in Action"(1987):科学の世界も日常生活と同様に混沌としており秩序だった科学的事実は一つの困難な社会的・物理的達成の結果
・科学的事実は精巧な「徴用(conscription)」のプロセスを通じて生まれる
・四つの徴用:味方(協力者),既存のテキスト,rhetoric,記録の工夫
・味方(協力者):自分の解釈を支持し同意してくれる人たち
・既存のテキスト:過去の文献(確立された事実)を引用する
・rhetoric(修辞的工夫):特定のスタイルや工夫(数値,グラフ,図など)によりその記述の真理を語る能力を高める
・記録の工夫:実験室等で科学的事実を見つけるために使われている器具や機械(解釈−記録装置)は,科学者のために世界を描写する(その測定結果が現象それ自体とは限らない)
・科学的事実は,相互に影響し合う関係(学問的組織,学術雑誌,機械や道具,一般の人々などの"actor network")の中から生まれる

科学的知識も社会的に構成される!

これまでの科学に対する考えかた
・科学=西洋文化の頂点
・科学者は確固たる事実を手にしている
・科学者の考えは薬やロケットなど現実に何かを生み出している
・科学は社会的な平等と結びつけて考えられてきた
・科学は理性に対して万人がもつ平等な権利のモデル
・科学の世界では観察し合理的推論によって得られた結果を報告する権利を誰でももっている
しかし,一般の人々は専門的知識が乏しいために,科学者が得た「事実」をそのまま受け入れざるを得ない!⇒現代では科学は平等に対する大きな脅威になっている!

社会構成主義による科学的知識の分析
・科学がもつ権威を取り除き,一般の人々も参加できるようにするのが目的
・分析のポイント:科学では科学的な言語,ある特殊な記述や説明の言語が用いられる
・物事には様々な説明の方法・手段があり,世界を写し取るという意味において特権的な言語は存在しない
⇒科学的事実・知識の社会的構成
⇒新しい科学的事実・知識が関係のプロセスから生まれる

科学的事実は科学者コミュニティで決定される
Karl Mannheim,『イデオロギーとユートピア』(1929)
・科学者がどの理論を好むかは経験的ではなく社会的に決定される
・科学者グループは特定の理論をめぐって組織される
・科学者グループ間の対立は理論的不一致にある
・したがって科学的知識は社会的プロセスの産物である
Ludwig Fleck, "Genesis and Development of a Scientific Fact"(1935)
・科学的な実験においては「見える前に知っておかねばならない」⇒知識が科学者集団によって創られる
Peter Winch, "The Idea of a Social Science"(1946)
・社会科学の理論的な主張が現象を構成している
George Gurvitch, "The Social Frameworks of Knowledge"(1966)
・科学的知識は特定の理解の枠組みから生まれ,その枠組みもまた特定の共同体の中で作り出される
Peter Berger and Thomas Luckman,『日常生活の構成』(1966)
・主観性の社会的構成という考え方を発展させる
・科学者の私的体験(見える,聞こえる,触って分かる)が実は社会的なものである
・我々は「もっともらしさの構造」に社会的に適応させられている
・18世紀の発明である時計が現在の我々の生活や我々自身を秩序付けている
Thomas Kuhn,『科学革命の構造』(1962)
・社会的に構成された主観性が中心テーマ
・「科学的知識は常に進歩し,研究(現実に対する仮説検証)を続けることにより真理に塚付ける」という科学についての思いこみに意義を唱える
・科学的な主張や説明も,あるパラダイム(特定の理論,事物に対する考え方,方法論的実践などヴィトゲンシュタインのいう「生活様式」への参加のネットワーク)の中に埋め込まれている
・つまり非常に正確だとされる科学的測定でさえもあるパラダイムから見れば正確であるというに過ぎない
cf.顕微鏡の性質やそれによって何が見えるかを知らなければ顕微鏡は何も教えてくれない
・パラダイムシフトこそが科学における革命だが,それによって真理に近づいているわけではない

2009年3月10日火曜日

社会構成主義の四つのテーゼ

私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は事実によって規定されない
・いかなる状態に対してもそれを表現する無限の記述や説明,表現方法が存在する
・言語は世界をありのままに写し取るものではない
・私たちが世界や自己について持っている知識は他の解釈が可能である
記述や説明,そしてあらゆる表現の形式は人々の関係から意味を与えられる
・世界や自己について事実であるとみなしているものは個人の心の産物ではない
・心が意味を生み出してたり世界を認識したりするのではなく,人々の関係によって創りだされる
・言語は文化や歴史に深く織り込まれているがゆえに,関係についての理解もまた文化や歴史の制限を受けている
・我々は決して全貌を把握することのできない関係性の総体(仏教でいう「空性」のようなものか?)の中にいる
我々は何かを表現する時,同時に我々の未来を創造している
・特定の言葉や表現を用いることは必然的なものではないために,それによって意味されるものを維持するためには,常にその意味を新たな方法で再構成していく必要がある
・もし何かを変えたいと願うなら「活動的詩人」になり新しい意味を生み出さねばならない
・新しい未来を創造するためには従来の与えられた意味を否定するだけでは不十分であり,それに代わる新しい言葉,解釈,表現,すなわち「生成的言説」を生み出さなければならない
自分たちの理解のあり方を反省することが未来に不可欠である
・妥当な理由,確かな証拠,高い価値は伝統の中に存在し,それ以外の可能性を否定している
・自省(reflexivity):自分が持っている前提や自明とされている事柄を疑い,現実を見る別の枠組みを受け入れ,様々な立場を考慮して物事に取り組む姿勢が不可欠

言語というゲーム

言語ゲーム:L. Wittgenstein,『哲学探究』
・従来の言語観:言語は世界を写し取る=言語の写し絵メタファー
・新しい言語観:言語のゲームメタファー.言語と言語が織り込まれている行為を「言語ゲーム」と呼ぶ.
・言語の意味とは,「言語の中でその言葉がいかに使用されているか」
・言語ゲームは様々な行動や事物のパターン(生活形式)に埋め込まれている
・我々は何かを記述する時,「言葉を用いて物事を行っている」のであり,一種のパフォーマンスに加わっている(J.L. Austin)
・事実も,常にある特定の限られた言語ゲームの中にある
・言葉と行為と事物の結びつき(関係性)についての社会的合意形成が意味を生む
・意味のある発話はすべて「言語行為」として,つまり人間関係において何事かを遂行する行為として概念化できる

言語の重要性

言葉による指示の不決定性
・W.V.O. Quine:ある言葉が正確に何を指しているのかを決定することはできない.すなわち,言語の対応理論は成立しない.

価値中立的な言明は存在しない
・Marx:資本主義経済の理論は経済の読み方としては正しいかもしれないが,その理論はそれを用語する人々が利益を得るシステムを押し進めるものであり,その理論は持てる者が持たざる者である労働者から搾取することでより多くの利益を得ることを正当化するもの.
・Jurgen Harbermas:いかなる知的探究であっても特定の利害・関心に特権を与えたり,特定の政治・経済の形態を促進することは避けられない.すなわち,科学者,学者,裁判官,宗教的指導者などはすべてイデオロギー批判の対象となりうる.
・Emily Martin:生物学のテキストの中では女性の身体が子孫を残すことを第一の目的とする一種の工場として表現されている⇒自然科学もイデオロギー批判の対象となりうる!

記号論:Ferdinand de Sausure,『一般言語学講義』
・シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の関係は恣意的(arbitral)なものである
・記号のシステムはその内的な論理に支配されている
⇒言語における真理は社会的習慣に左右される!
⇒いかに真理,客観性,正確さが主張されてもそれは物事を表現する方法の一つに過ぎない
⇒言語の意味は言語の外の世界とは独立している

言語的脱構築:Jacues Derrida
・すべての有意味な行為は「ありえたかもしれない多様な意味を抑圧する」⇒合理性とは近視眼的
・言語とは差異(difference)と遅延(deferral)のシステム
・差異とは二分法であり,「その語」と「その語でない」と分ける.すなわちある語の意味はその語によって示される「在」を図として認識させ,「不在」を地として抑圧する
・遅延とは,ある語の意味が決定されるためには他の語の出現を待たなければならないこと.この遅延はエンドレスであり,永久に意味の痕跡を引きずっている

自分の心が分かるとは

・ある心の状態を他の状態と区別することがどうして可能なのか?
・自分の心の状態を観察する時,心のどの部分が観察し,どの部分が観察されるのか?
・心の状態を生理学的な指標によって表すことは可能か?
・心の状態を正しくは空くしているという確信がどこから得られるのか?
・自分の心の状態と他者の心の状態が同じであるとどうして分かるのか?
⇒自分の心が分かるなんて,「抽象を具体と置き換える錯誤(fallacy of misplaced concreteness)」ではないか?

社会構成主義における自己

これからしばらくは,『あなたへの社会構成主義(An Invitation to Social Construction)』(ケネス・J・ガーゲン著,東村知子訳,ナカニシヤ出版)のまとめをしていきます.

近代的な自己
・啓蒙主義(Enlightenment)の時代
・ユダヤ−キリスト教において人間は魂,すなわち神聖なる父とのつながりを授けられていた
・個々の人間は世界をあるがままに観察し,適切な行為について判断できる⇒個人
・あらゆる権威,常識,感覚を疑い得るが疑う自分を否定できない(Rene Descartes,『方法序説』)
・個人が世界について観察したことがどのように心に記録され知識になるか(John Locke,『人間知性論』)
・国家は個々の国民の同意(consent)により法(low)を定め秩序(order)を維持できる(Thomas Hobbes,『リヴァイアサン』)
・民主主義(Democracy)=個人(individual)の投票権(the vote)
・公教育=個人がより多くの知識を獲得し正しい判断をする能力をもつことは国家にとって有益である
・英雄のNarrative:ある人が自らの信念を貫くために自分の命を捧げ,最後にはその信念が正しいことが人々に理解される⇒他人に流される人を軽蔑し,自立している人を尊敬する風潮
・個人の自立性は,過去の闘争や戦争などの宗教的・哲学的遺産(religious and philosophical heritage)=他者によって授けられたもの

二元論的世界(Dualistic World)
・心的世界(内界)と物的世界(外界)の因果関係(causation)をどう理解するか?
・心の働きが物質である肉体にどのように作用(action)しているのか?
・松果体(pineal body)で変換される(Descartes)←脳科学により否定
・一元論による回避:世界は心の中だけに存在し,物質的世界(外界)があるという考えは人間の心が作り上げたものにすぎない=観念論(idealism)⇒唯我論=個々の人間は個々に閉ざされた私的世界に生きており,他者の存在すら個人的想像にすぎない
・唯物論(materialism)による回避:物質的世界のみが存在する⇒心とは脳における物質的過程以上のものではない←物質が存在することを我々はどのようにして知ることができるのか?
・世界が物質であるという主張は,我々がそのように考える限りにおいてのことである
・物質的世界には因果関係がある⇒主体的な自己は存在しないことになる⇒人間とロボットに差異はない!
※ただし物質的世界では複雑系あるいはchaos現象など因果関係を超えた現象が知られている
・二元論の問題:主観としての我々がどのように客観的世界についての知識を獲得するのか?=認識論(epistemology)
・主観的世界と客観的世界との因果関係を説明できないかぎり,この問題を解くことはできない!
・回避策1:経験主義(empiricism)=心は世界をありのままに映し出す「鏡としての心」
・個人の心は生まれた時は白紙の状態(tabula rasa)であり,世界を体験することによりそこに知識が書き込まれて行く(Johon Locke,『人間知性論』)
・世界についての知識は帰納法の規則により創りだされる(Francis Bacon)⇒言葉は鏡としての心を歪める
・経験主義への疑問:文化的背景が異なれば世界についての見方が異なるのでは?民主主義や自己といった抽象的概念が世界についての生の感覚からどのように生じるのか?
・疑問の回避:合理主義(rationalism)=世界が我々の概念を形成するのではなく,我々の心があらかじめもっている数や因果関係,時間などの基本的な概念の助けを借りて世界を様々に構成する
・合理主義への疑問:異なる文化に育った人々の異なる概念はどのように獲得されたのか?獲得されたのではなく生得的に備わっているとすると新しい概念が誕生するのはなぜか?またDNAにどのようにして概念が刻み込まれているのか?
⇒これらの問題は二元論から生じている!二元論を放棄すれば新しい理解が生まれる!

2009年3月9日月曜日

博物館とフィンランドの教育(その2)

フィンランドの教育の特徴はいろいろありますが,なんといっても「社会構成主義」を取り入れていることが,知識科学を専門とする私にとっては最大の特徴です.漢字だけ見て,「社会主義」に関係しているのではないかと思われる方もいるでしょう.でもまったく関係ありません.また「構成主義」という言葉もあり,Wikipediaなどでは混同されています.しかし社会構成主義はむしろ「ポスト構成主義」であり,両者はまったく異なる考え方に基づいていると,私は解釈しています.つまり構成主義が「個人」あるいは「個人の知識」という考え方に基づいているのに対して,社会構成主義は個人あるいは個人の知識などというものはなく,これらは社会的な対話を通じて形成されるという考え方に依拠しています.
そして社会構成主義では「言葉」によって現実が作られると考えます.科学的知識も言葉によって作られるのです.言葉は文化に依存します.科学的知識は文化に依存しない普遍的な事実であるように考えられがちですが,科学的知識も,科学者というコミュニティの中で通用する専門用語によって形成された,偏ったものであることが社会構成主義に基づく研究により明らかにされています.
このような社会構成主義に基づくフィンランドの教育では,社会的な対話が重視されます.先生と生徒,あるいは生徒同士の対話だけでなく,先生と保護者,生徒と保護者の対話も含まれます.さらに,生徒と社会の対話も重要です.新聞やインターネット,書籍,メディアなどを通じて,生徒は社会と対話しながら知識を形成していきます.フィンランドの教育では,生徒に対話の仕方を教えていると言っても過言ではありません.
また社会構成主義では先述したように,普遍的な知識あるいは事実というものはないと考えています.したがってフィンランドの教育でも「正しい知識」が存在しているとは考えません.生徒たちが他者との対話を通じて形成する知識がすべてであり,その知識は生徒たちの対話のレベルや対象の拡大によって変化していくものなのです.
以上のことから,「フィンランドの教育とは対話である」というメタファーが可能だと思います.

2009年3月6日金曜日

博物館とフィンランドの教育

私が勤める大学の,博物館の先生から,今年の夏に学生と市民向けに講演を頼まれました.その先生は私が書いたフィンランドの教育に関する論文を読み,フィンランドの教育と博物館が目指している教育との共通性を見つけ,そのような話をして欲しいとのことでした.日本の大学博物館とフィンランドの教育とが結びつくとは思ってもいませんでした.最近,メタファー研究にはまっている私としては,この二つの新たな関係について考察できる絶好の機会だと思い,喜んでお引き受けしました.
さて,博物館とフィンランドの教育の関係を考察するために,まず博物館とは何かを知る必要があります.本学の博物館のHPによれば,モノを保存することで文化を継承するのが使命だとのこと.様々なテクノロジーの発達により,保存していたモノから次々に新しい情報が生み出される可能性があり,それらの情報を使って,新たな文化の発見が可能になります.文化という抽象的な概念を直接体験することはできませんが,ある文化の中で生まれたモノであれば,見たり触ったりして直接体験することができます.つまり博物館は「文化とはモノである」というメタファーを体現している場ということになります.
ここで注意しなければならないのは,メタファーはそれによって理解される概念のある一面だけに光をあて,それ以外の面は隠してしまうということです.つまり「文化とはモノである」というメタファーは,文化をモノという視点から理解しようとしているにすぎず,実はそうではない視点もあり得るということです.たとえば文化を継承する,あるいは生み出す人間の側面,そしてその人間の精神的な側面,または地理や歴史,自然環境なども関係しているでしょう.もちろん博物館はモノだけでなく,こうした様々な文化の側面を見せる役割もあるのだと思います.ただしここでは,博物館を「文化とはモノである」という視点から捉えておきたいと思います.
次にフィンランドの教育をメタファーによって理解してみたいと思います.