2009年4月30日木曜日

人生の物語(つづきのつづき)

例のごとくうまいこと某大学の助教授に職を得てはるばる札幌に来たのです.2月半ば過ぎに面接で来た時にその雪の量にびっくりしました.そして,底のツルツルな革靴で来たもんだから,ススキノのホテルの近くで,当然の如くもののみごとにひっくり返りました.翌日の面接も朝から大雪.そんな中,北大の構内を自転車で走っている人がいて,さらに驚きました.面接は15人くらいの人を前にプレゼンをしました.今から考えると学部長クラスの方々でしたね.たしかあんまり緊張しなかったように思います.緊張って,今の自分以上のもんを見せようなんて考えるから,緊張してしまうのでしょう.私は,良いか悪いか別にして,今の自分に開き直っているところがあるので,緊張しないのでしょうねぇ.面接を終えて,札幌駅で家族にお土産を選んでいたら副学長から携帯に電話があり,合格したから,事務手続の書類を送るから,記入して返送するようにとかなんとか言われたように思います.書類選考はえらく長引いたのに,二次の面接はあっという間に結果が出ました.まあそれから会社を辞めるまでが大変でしたが,2001年の3月末には家族で札幌に引っ越してきました.うーん,今日は気分が乗らないのでまた今度にしよっと.あーいつになったらこの課題は終わるんやろか...

2009年4月28日火曜日

人生の物語(つづき)

職業というものを最初に意識したというか,記録に残っているのは小学校の卒業文集(記録って).星が好きで宇宙に興味があり,宇宙に果てがあるんかないんか(お前は千葉県民やったろ!)を考えていたので天文学者になりたかった.それとエジソンの伝記を読んで発明家にも憧れていた.どっちにしても勉強せんならんし,勉強好きだったから,進学校に進み,バド同好会会長を務め,そして高校時代に湯川秀樹や朝永振一郎の著作を読んで理論物理に憧れ,一年間宅浪して念願の京大理学部へ入った.当時の学部長は日本における動物行動学の先駆けであった日高敏隆先生.入学式の「真理の前では,老若男女を問わず,学生も教授も平等だ」という言葉に科学のロマンを感じた.でも入学してすぐの微積でεθ論法なるものを延々と説明されて嫌気がさし理論物理を断念(はや).学生時代の大半は音楽とバドと神社仏閣巡りに費やした.4回生でどこの研究室に入るかという時期,生物化学の授業でDNAの螺旋構造の写真を見せられ,こんな美しいものに人間のすべてが詰まってるのか,と生物化学教室に.しかし来る日も来る日も大腸菌の世話(そうしないとDNA調べられないんだからしゃあないやん).もう少し楽に人間のことを研究できないかと思っていた折,できたてホヤホヤの奈良先端科学技術大学院(通称NAIST)のことを知り,ようやくコンピュータが普及してきつつあった時代でもあり,コンピュータつこたら人間のことシミュレーションできるんちゃうかおもうて,まった畑違いの情報科学研究科に口先&筆先三寸で入学.選んだのは自然言語処理研究室.自然言語とは人間が話したり書いたりする言葉のことで,コンピュータ用の人工言語と区別するためにこんな不自然な言い方をしてる.言葉のことを研究したら,人間のことがわかるんじゃなかろうかと思ったのだが,人間が普段実際に使ってる言葉はあんまりにもむちゃくちゃで,コンピュータの手には負えない.そこで選んだ私の研究テーマは良い文章が書けるようにコンピュータが支援してあげようというもの.しかし私の興味はすでにそこになかった.授業で認知科学を取り,これからは認知科学だ!と思ってしまった.その授業を開講していたのが,米国から戻って来たばかりの中小路さん(先生とつけると怒られるので).様々なもののデザインを認知科学の立場から考えるという内容だった.まあ言ってみれば使う人の立場に立ってデザインしなさいということだが,当時のコンピュータ業界ではまだそんな考え方は斬新だった.で,とりあえず修士を終えて某大手システム開発会社に入ったが,2年後に社会人として中小路さんの研究室で博士号を取るために戻ってくる.それはさておき,会社で最初に任された仕事は所属した部署のホームページの開発.といっても企画をまとめて下請け業者に委託するだけだったけど.当時はまだホームページなんて珍しかったなあ.次が新しいオフィス環境の設計と評価.部長の代理で参加したセミナーがホームワークとか遠隔勤務といった,米国で流行り出したコンピュータネットワークを利用した新しい働き方で,新婚ホヤホヤの私にとって(というか仕事に行きたくないだけ?),自宅で仕事ができるなんて夢のようだった(職場まで自転車で30分くらいだったけど.しかも残業なんてほとんどせえへんかった).というわけでセミナーの報告がてら課長に,「こんなええ話がおまっせ」と相談に行くと,じゃやってみっか,君に取りまとめを任せるから,予算は◯◯円でいいかな?(えぇぇぇぇっっ!新入社員にそんなに!)という具合でできることになりました.まあバブリーな時代でした.で,当時働いていた西葛西と大阪支社に,大容量(といても今からするとちゃちい)ネットワークで結んだオフィスを作り,社会人として働きながらNAISTに博士号を取りに行くことが認められた私は大阪支社のオフィスに入ってオフィスの評価に携わりました.博士号のテーマは,これまた当時米国で産声をあげたナレッジマネジメント(知識管理)でした.遠隔間オフィスには知識共有が不可欠だと感じていたからです.無事に2年半で博士号を取得し,その半年後には大学の先生になっていたというわけです(どういうわけや!).あーまた長くなった.大学に職を得てからはまた続きで(はよ終われ!).

人生の物語

今年のムーミン授業の最初の宿題は「私の人生の物語」の創作です.先日の授業で「物語とはなんぞや」という説明をしたので,その内容を盛り込んで,各自の過去・現在・未来に渡る人生を物語にしてもらうというものです.自己紹介代わりということで,私も書かなくてはいけません.というわけで今日はその構成メモのようなものを書いてみようと思います.

まず前回の説明によれば(ってアンタが言うたんや!)一番大事なのは「オチ」.私の人生のオチをどうするか?ハッピーエンドか?バッドエンドか?やっぱ,ハッピーな方がいい!じゃあ私にとってのハッピーとは?家族?オーケストラ?バドミントン?ときて,仕事?(ついでかよ!というツッコミ)オケやバドは趣味だしなあ.まあ仕事も趣味みたいなもんか.でもその趣味が人生を豊かにしてくれてるな.そういう意味では家族もそうだ.じゃ,人生の豊かさってなんだろう?家族にオケにバドに仕事.これらに共通するのは人と関わるということだな.つまり人生の豊かさ(と私が感じてるもの)は人との関係の豊かさということか?いろいろ指向が異なる集団に属することで,いろいろな見方をした人と関わりをもち,いろいろな見方があることを知り,それが別の集団でも活かされる,という相乗効果が豊かさなのかな?授業でも,私を含め,学生たちがそういう人との関係の相乗効果が生まれることを,私は求めているような気がする.そして私の研究もそういう相乗効果を支援したいというのが目的だな.ということは,私の人生のオチは「人との関係の相乗効果が生まれる時」ということになる.

じゃ次.具体的にそういう時ってどんな時だ?今まで経験したことはあるだろうか?学生時代もオケとバドとを掛け持ちしてたけど,相乗効果なんかあったかな?どっちかをさぼる時に他方を口実に使っていたことはあったけど(そら相乗効果ちゃいまんがな!).

そもそもバドを始めたきかっけは,小学生の時に週末のたびに家の庭で家族でバドをして楽しくて,中学で部活に入ったんだったな.2年の時に顧問になった中越先生という技術の先生は,えらい小さかったけどむちゃくちゃ上手かった.ある日,我らがだらけた練習をしていると,中越先生に「勝ちたいのか,楽しみたいのか,どっちかはっきりしろ!」と迫られたな.我らは勝ちを選んだけど,それはそれは厳しい練習を課せられた.結局,最後までそれほどよい成績を残せた訳じゃないけど,充実した部活生活だったな.このお陰で運動オンチが治ったんちゃうかな.高校にバド部はなく,勝手に友だちを誘って休日に体育館借りてバドをしてた.いちおう,バドミントン同好会の会長(経験者がわししからおらん!)ということで,会員から「会長」と呼ばれておった(なんでえらそうな話し方やねん!).でやっぱりバドが好きだったので,でもバドだけは嫌!ということで大学ではバドサークルに入った.土曜日などは朝昼抜きでバドしたな.当時の体重は56kg,ウェストは63cm,全身筋肉というような,プロボクサー並みの体型だったな(ホンマかいな?).

音楽の方は,小中とダイッ嫌いだった.なんだかよく分からなかったし.でも浪人して,図書館で目にしたモーツァルトのレコードを借りて聴いて,それですっかりモーツァルトにはまったんだった.関連書籍もよく読んだな.で,大学に入ってなんとかモーツァルトを弾きたい!でも楽器なんてちゃんとやったことないし,交響楽団はレベル高くて,練習ばっかりだし,レッスンに行かされるって言うし,他にもいろいろやりたいし(またそれかい!),ということで,マンドリンオーケストラ(通称マンオケ)を選んだ.重盛さんという美しい2回生(実は4回生だった...)の先輩に惑わされて,いやいや憧れて,マンドリンパートに入った.サマーコンサートが終わると,コントラバスにいた1回生二人が辞めてしまい,お前は酒が強そうだから低音向きだというマンドロンチェロの先輩に誘われ,ちょうどやっぱりマンドリンの音より弦楽器がいいと思っていた時でもあったので,アルコールをアルコ(コントラバス等を弾く弓のこと)に持ち替えたのが,コンバスとの出会いだった.技術顧問をしていたのが京都市交響楽団のコンバス奏者の冨沢先生(通称「冨さん」なんて,恐くて面と向かっては言えなかったけど)で,ごく稀にコンバスを教えてもらったけど,それ以上にオケとはなんぞやということについて教えられた.印象に残っているのは,「オケに協調は必要ない.楽譜に書かれていること,あるいは指揮者の指示を,一人一人が完璧に弾くだけだ.」というもの.この言葉で,「オケはみんなで協力して助け合って一つのことを成し遂げるんだ!」というスポコン的な幼稚な美学は吹っ飛んだ.この言葉があるから,今,アマオケでもう一度,その言葉にチャレンジしようと思っている.

えらく長くなって,回顧も疲れたので,家族編と仕事編はまた次回に.乞うご期待!(っていうか最後までちゃんとやれ!)あっ,お昼食べるの忘れてた!

2009年4月27日月曜日

定演を終えて

4月25日にキタラで定演(定期演奏会)をしました.私は札幌西区オーケストラ(通称,西オケ)というアマオケ(アマチュアオーケストラ)でコンバス(コントラバス)を弾いてます.マンションの新年会で同じテーブルだった方がこのオケでヴァイオリンを弾いており,誘われるまま入団しちゃいました.楽器はもっていてテキトーには弾いていたのですが,まともな曲をまともに弾くのは13年振り!定演まで3ヶ月しかなかったのですが,メイン曲がラフマニノフの交響曲第2番という私の好きな曲だったので,必死に(というほどでもないか)練習しました.本番はなんとかそれなりに弾けたと思いますが,やはりきちんと教則本からやり直し(本気か?),来年のドヴォ9(ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界』(大阪の新世界とはちゃいますよ))はペキカン(どこの業界だ!)に弾きたいと(現時点では)思ってます.本番ではコンバス用の椅子を使わせてもらいましたが(とっても座り心地good),いっつも立って弾いていたので,楽でしたが,音程が心配でした.これからは座奏も練習しようと思います.
さて,当日の入りですが,なんと1299名ものお客さんに聴いてもらいました.アンケートの回収率も30%と高く,とても関心をもってもらえているのだと実感しました.曲の希望にカリンニコフ(ロシア人か?)の交響曲第1番と書いていた方がおり,このオケへの期待も大きい(?)のだと思います.自分のやったことが誰かに受け止められるというのは嬉しいものですね(渾身のギャグはいつも家族に無視されるのに...).打ち上げはついつい飲み過ぎてしまいました(いつもや!).

2009年4月23日木曜日

今年のムーミン授業が始まる!

昨日はムーミンの授業の実質的な第一回目でした.抽選で受講者が決まってからの第一回目です.一回目の授業は,ムーミン物語を読み解くために,社会構成主義の立場から物語とは何かについて,桃太郎を例に解説しました.次に,物語というのは,何もいわゆる物語だけでなく,書かれたもののすべてが物語であることを理解してもらうために,学術論文と物理の入試問題を物語の視点から読み解き,こうした学術的な物語が基本的には分割統治の考え方に基づき,言葉によって客観的事実を製造するものであることを説明しました.そしてこの考えが,環境問題や倫理問題といった現代の問題に適用できないことを説明しました.だから新しい物語のパターンが必要であり,ムーミン物語はそうした新しい時代の物語のパターンを生み出すヒントになるだろう.というわけで,ムーミンの授業をやっているのです,なんて話をしました.
今回は東進ハイスクールからライターの方が取材に来ていて,そのライターの方に,「この授業はスバラシイ!必修にすべきだ!」とお褒めの言葉をいただきました.でも必修なんかになったら私は一学年2600名も教えなきゃいけません!それにムーミンの授業を必修にするなんて強攻策をとったら,自由を愛するムーミンたち,いや作者のトーベ・ヤンソンさんに祟られることでしょう!自由に選択してもらうのがこの授業には相応しい!!
それはさておき,今年の受講生にはびっくりさせられました.前回のオリエンテーションの時に,私が執筆に携わった本をもってきた女子学生がいたのですが,運良く抽選に通ったその子が,今回はその本にサインをして欲しいというのです!もう8年間も大学で教えてきて,一般市民や高校生などにもたくさん講演をしてきましたが,サインを求められたのは初めてです.しかも,その子に触発された別の女の子たちが,なんとムーミンの本にサインをして欲しいというのです!作者や訳者に申し訳ないと思いつつ,まあいいっかという無責任な気持ちでサインをしてきました.一人はムーミンの絵を書いてくれというので(オレは似顔絵描きか!),次回までに練習してくるから,と引き延ばしました.ハンコにしてくれって言ったんですが,それじゃまったくダメって言われちゃいました...今年の授業も波瀾万丈の予感です...

2009年4月8日水曜日

社会構成主義の研究スタイル

語り(narrative)の探究
  • 実証研究では,ものごとの真の性質を発見することが評価され,それ以外の言説は排除される.また,科学的言説は専門用語によって表現され,日常生活で使われる言葉とは区別される.
  • これに対してnarrative研究は,より多くの人々の声を対話に加え,彼ら自身の語り(narrative)を探究することにより,新たな理解を生み出す方法.実証研究につきものの意図的操作や被験者を単なる実験対象とみなす態度を極力排除する.narrativeを探究することにより,現状に対する代替案を生み出す,他者をより身近に感じる,共感を生み出す,ことが可能.

共同的研究
  • 実証研究では研究者は研究対象とできるだけ距離を置く.研究者は自らの目的のためにデータを利用する.人々の行為はあらかじめ決定されている(先行する状況によって必然的に引き起こされる)ものとして扱われるのに対して,研究者はあくまでも自分で決定することができるように振る舞う.
  • これに対して共同的研究は,研究の対象である人々と共同で研究する.共同的研究のために参加者は自分自身について語る.研究の参加者が自ら方向性を決定し,研究に協力する.参加者の共通の目的と願いに基づいたものであれば特別なルールはない.
Action research
  • 典型的な実証研究は価値中立性を主張し,道徳的・政治的なものとは無関係を装う.
  • これに対してAction researchでは,研究者が自らの価値観を常に意識し,自らの道徳的・政治的信念を大事にする.Action researchは,当事者との共同的実践でなければならない.

実証研究がもたらした成果

社会構成主義は実証研究をすべて否定するわけではない.社会構成主義は,どんな伝統や生き方にも一定の価値と理解の可能性があると考える.ただし実証研究に対する要望が二つ.
  1. 「事実である」ことの放棄.どんな研究でも歴史的・文化的に限定されたもの.最終的な結論(あるいは唯一の正解)を追い求めるのではなく,広い対話への参加を目指すべき.
  2. 「普遍的な事実」の発見という帝国主義的発想を放棄.実証研究がどうすれば社会の役に立つかを考えられるべき.
この二つの放棄により実証研究には以下の可能性がある.
  1. 実証実験に基づく実験は,ある立場を支持する鮮やかな例.実験で得られた結果そのものが,ある理論を証明したり反証したりすることはないが,ある理論の非常に強力な具体例になる.それにより,その理論がもつ重要性や可能性を正しく理解できるようになる.
  2. 実験に基づく発見は,道徳的・政治的問題について深い洞察をもたらす.抽象的な専門用語ばかりの議論は分かりづらいが,実験の結果は,ある問題について「現実の生活に根ざした」言葉で考えることを可能にしてくれる.
  3. 実験に基づく発見は役に立つ予測を可能にする.実証研究を社会に役立つ予測を生み出すために用いることもできる.ただし,予測に成功したからといって,その理論の正しさが証明されるわけではない.予測した結果が社会においてどのような意味をもつのかという議論が必要.

2009年4月7日火曜日

実証研究に対する疑問

優れた実証研究の5つの基準
  1. coolであること:優れた実証研究は世界をありのままに写し取るもの.研究者は世界を直接体験すべき.したがって研究者は偏見によって観察の目を曇らせてはならず,価値中立的でなければならない.
  2. 状況の統制:ほとんどの実証研究は因果(causal)モデル.優れた実証研究はある「結果」を生み出す「原因」の状況を正確に説明する.そしてこの状況を体系的にコントロールすることにより結果の多様性を確認する.
  3. 数字への変換:数字は言葉と違って価値中立的.したがって実験結果を数字や数式に変換できれば,統計手法を用いてより正確に説明できる.また未来をも予測できる.
  4. 唯一絶対の正解:実証研究では客観的な世界の存在が暗黙の前提.したがって優れた実証研究は混在する様々な考えを,唯一明白な正解に置き換える.
  5. 実践から独立した事実:優れた実証研究は,経験に基づいて,歴史や文化の枠を超えた普遍的な理論を社会に提供する.基礎的で普遍的なプロセスさえ明らかになれば,その知識はどんな状況にも当てはめることができる.
社会構成主義からの反論
  1. 研究者は何らかの理想をもち,何らかの利益のために研究をしている.こうした研究者の理想や利害は,問題を定式化する言葉や対象の記述など,あらゆる研究行為に影響する.価値中立的なレトリックでこれらを覆い隠すのは不誠実.
  2. 因果関係は社会的に構成されたもの.自然に存在するわけではなく,私たちが現象を理解するためのアプリオリな枠組み.コントロールされた研究がコントロールする立場に利益をもたすため,中立的ではない.人間はロボットか?
  3. 数字が言葉や音楽や絵画などよりも世界を正確に写し取るのに適しているわけではない.それはすべて「解釈装置」.しかも数字という解釈装置は本当に大事なものを切り捨てる.
  4. 世界を写し取る唯一の正解など存在しない.どのようなアイデアも社会的に構成されたものであり,科学的・社会的な価値において,可能性と限界の両方を持っている.唯一の正解を求めることは可能性を捨てること.
  5. どれだけデータを収集しても,ある理論が正しいことを証明できない.なぜなら,何がデータとみなされ,どんなデータが信頼されるかは,ある共同体におけるアプリオリな解釈によって決定されるから.抽象的な理論から,どの状況にその理論を当てはめればよいかは導きだせない.

自己の会話的構成

私たちと社会との関係を生み出すためには,
  • 何が存在するのか(「存在論(ontology)」)
  • どんな振る舞いが適切か(「倫理(ethics)」)
について,たとえ素朴でも何らかの共通理解をもっている必要がある.

「存在論」
共通の言語による副産物.「現実(reality)」についての共通理解.コミュニケーションが可能となるためには,お互いが似たような状況で似たような言葉を用いる必要がある.つまり「求心力(centripetal force)」の作用を受けている.

「倫理」
倫理の基盤は現実についての共通理解.人は様々な社会的関係をもっており,より多くの関係に参加すればするほど,ローカルな「現実」がたくさん生まれる.そしてある関係からある関係に移る際に,他の関係もひきずっていく.このことはある関係における「現実」すなわち秩序を脅かす.この脅威を避けるのが「倫理」であり,「救心化」を促進する.

「自己」
自己は共同体の存在論の中に現れる.そして自己には共同体の倫理が伴う.これらが「私」という主体的な行為者という現実を生み出している.

社会的釈明(social vindication):アイデンティティと責任
私たちの行為が矯正(reformation)されることは,組織化された社会に生きること.矯正は秩序を維持するための手段であり,関係における倫理の作用.
関係の多様化に伴い,私たちの関係の中にある暗黙の倫理観(求心的傾向),すなわち秩序は脅かされるようになった.その一方で秩序を回復する手段も生み出され,それが「社会的釈明」.

会話における隣接対(adjoining pair)から見た社会的釈明
  • 挨拶−挨拶
  • 質問−回答
  • 招待−受諾or辞退
  • 要求−承諾or拒否
社会的釈明はこうした隣接対の後半に現れる.特に,ある関係における承認された一人から他のアイデンティティに対する「非難(criticism)」への反応として,関係を「修復」する行為が社会的釈明.

「修復」の二分類
  • 「言い訳(excuse)」:自己についてのモダニズム的理解に基づく.主体性が関与していたかどうかが問われる.関係性の中にまだ自分がいることを主張.秩序に挑戦するものではない.
  • 「正当化(justification)」:一般に受け入れられている現実に異議を唱える.個人のアイデンティティにとっての問いを,社会的関係についての問いにすり替えている.

対話はどこから力を得ているか?
  1. 非言語的なシグナル(表情,注視,ジェスチャー,姿勢など)によって,社会的関係における言葉の機能は変わる
  2. 物質的なコンテクスト(服装,所持物,場所,時間,天候など)も言葉に影響を与えている
  3. コミュニケーション・メディア(電話,電子メール,スピーカーなど)も言葉に影響する.「メディアはメッセージ」.

プロセスとしての対話

Erving Goffman:『行為と演技』
  • 言語は社会行為の一形式として理解されるべき
  • 言語には言葉だけでなく,ジェスチャー,服装,所有物なども含まれる
  • 私たちは自分が他人にとって何者であるかを定義する信号を絶え間なく発信している
  • 社会生活において,個々の関係ごとに他者に受け入れられる自分のイメージを作り上げる必要がある
  • あらゆる関係には「裏の部分」がある
  • 演じる姿と本当の姿とは滅多に一致しない舞台のような社会生活=ドラマツルギー(劇作法)
  • 自分を含め,最も多くの人を騙すことができた時が最良の瞬間
Harold Garfinkel:"Studies in Ethnomethodology"
  • 私たちのやりとりは言語を中心とする"ethno-method"に依存している
  • エスノ(一群の人々)が合理性や秩序を達成するために持ちいるメソッド(方法)
  • "ethno-method"は公の資源であり,私たちは誰もが合意する「合理的な世界」を作り出している
  • indexicalな言葉の利用:過去の文脈で使用された用語の索引から言葉を借りて来て現在の状況に当てはめている
  • 私たちは,言葉を,それが言及する対象と一致しているようにみなしているに過ぎない
  • 人々は,それ自体は決して疑問視されることのない"routine ground"に基づいて,混沌を秩序へと変えている
  • 用語索引を用いるという手法を取らなければ,意味のない何かにぶつかってしまう

2009年4月3日金曜日

レトリックとしての対話

  • 対話の構造を人々がいかに持ちているか?⇒レトリック(説得の技術)
  • レトッリク=説得の技術であれば,レトリックについての研究は現実が説得的に構成される場面に作用している権力を明らかにしてくれる
  • レトリックの策略を明らかにすることにより,誰もが自由に話すことのできる場が創出される
客観性のレトリック
  • 言葉のもつ「客観性」を作り出す力の中心は「鏡としの心」メタファー
  • すなわち私たちの私的経験が世界をありのままに映し出すことができれば「客観的」
  • しかし実際には,客観性とは特定のやり方で話したり書いたりすることにより達成される
対象と距離を置くレトリック
  • 客観的事実は外的世界に関係するもの
  • 対象は私たちの心の中ではなく,離れたところにある
  • 「その」「あの」などの指示代名詞
  • 「XXが◯◯された」という受動態
  • この反対は「私化」:対象を所有しているように表現する
権威を打ち立てるレトリック
  • 客観的事実を主張する権威者となるためには「心」が現実をありのままに映し出せる位置にあったことを示す必要がある
  • 「私(我々)は××した」「私(我々)の◯◯が」といった表現でその場にいたという主張を埋め込む
  • 他の鏡も同じことを映し出すことを示す⇒引用
  • 神の視点:「◯◯が観察された」「××が見出された」などの受動態
心の鏡を浄化するレトリック
  • 感情を出さない←感情は客観性という鏡を曇らせ歪める
  • 感情,動機,価値,願望などの「心の内的状態が一切関与しない」ことを示す
  • 受動態,数値化,「その結果は◯◯を示している」
要するに,
  • 客観性とは心の状態ではなくレトッリクである!
  • 客観性とはあるコミュニティの基準に即して「ありのまま」に語っているということ
  • 客観性を生み出すレトリックはコミュニティが成立し機能するために必要
  • あるコミュニティにおける現実(客観的事実)を普遍的なものとして扱うことはできない

構造としての対話:ナラティブ

理解可能な語り(ナラティブ)を構成する慣習やルール
  1. 収束ポイント(ゴールや目的)が必要
  2. 収束ポイントに関するできごとが必要
  3. できごとの順序が適切であることが必要
  4. 各できごと間の因果的な連関が必要
※語りに真実みを持たせる上で特に重要なのは「収束ポイント」と「因果的連関」

構造としての対話:メタファー

文字通りの言葉v.s.メタファー(比喩)
  • 言葉は,あるコミュニティで長く使われるうちに「事実と一致する」という価値を獲得する⇒言葉が意味をなすためにはコンテクストが必要
  • ある言葉を別のコンテクストの中に置くのがメタファー
  • 文字通りの言葉かメタファーかは慣習の違いに過ぎない
  • 対話で用いるメタファーの違いにより話者の役割や対話の結果も変わる(cf.「議論=戦争」⇒「議論=ゲームor探検orダンス...」
心のメタファー
  • 精神分析は考古学メタファー←新しい知識を発見する
  • 私たちが認識している「現実」はメタファーに基づいていることに気づくことにより,新たな行為の可能性が広がる
  • 西洋文化における心についての中心的メタファー=「容器」but内と外を切り分けることは不可能
  • 「経験」の二つの性質:受動的v.s.能動的⇒いずれも「心=容器」がベース
  • 心理学における「思考」は統計手法のメタファー⇦科学者が用いる正当化の道具(統計)が理論を作り上げるメタファーや概念に先行する
  • 「感情」=動物メタファー,推進力メタファー,生物学的メタファー⇒病気メタファーetc.

2009年4月1日水曜日

社会構成主義の研究

研究事例
主なapproachは以下の三つ.共通しているのは,対話や言語がいかにしても私たちの世界を作り出しているのかという関心.
  1. 今は何の疑いもなく用いられている用語の定義がどのような変化を経てきたのか?用語の定義の起源やそのコンテクストの追求.
  2. そのような用語が,様々な人々や事態をどのように枠にはめこんでいくのか?言葉の枠にはめ込まれるプロセスの追求.
  3. 言語を含む世界や文化の中で言語がどのように機能するのか?文化への参加を可能にする言語による構成の追求.
対話
  1. 対話=構造化されたもの(安定して繰り返されるひとまとまりの慣習)
  • 構造化されたものの中でも特に大事なのはmetaphor(比喩)とnarrative(物語)
  • この二つは自己や世界の定義において重要な役割を果たしている
  • これらの分析により,自由な記述や説明を制限している見えない壁を暴きだす
  • 私たちは話しだそうとした瞬間,既に既存の構造によって「話をさせられている」
  1. 対話=rhetoric(説得としての対話)
  • 言語の習慣や構造がいかに世界を枠付けるのか?
  • そしていかに社会的な影響を及ぼしていくのか?
  • 構造は静的ではなく,好ましい現実を作り出すために人々が用いるもの
  1. 対話=process
  • 社会的な相互関係,会話,交渉,議論などがどのように進むか?
  • 絶えざる変化,突然の決裂,新しい生き方の登場などが生じるプロセスを理解する