2009年4月28日火曜日

人生の物語(つづき)

職業というものを最初に意識したというか,記録に残っているのは小学校の卒業文集(記録って).星が好きで宇宙に興味があり,宇宙に果てがあるんかないんか(お前は千葉県民やったろ!)を考えていたので天文学者になりたかった.それとエジソンの伝記を読んで発明家にも憧れていた.どっちにしても勉強せんならんし,勉強好きだったから,進学校に進み,バド同好会会長を務め,そして高校時代に湯川秀樹や朝永振一郎の著作を読んで理論物理に憧れ,一年間宅浪して念願の京大理学部へ入った.当時の学部長は日本における動物行動学の先駆けであった日高敏隆先生.入学式の「真理の前では,老若男女を問わず,学生も教授も平等だ」という言葉に科学のロマンを感じた.でも入学してすぐの微積でεθ論法なるものを延々と説明されて嫌気がさし理論物理を断念(はや).学生時代の大半は音楽とバドと神社仏閣巡りに費やした.4回生でどこの研究室に入るかという時期,生物化学の授業でDNAの螺旋構造の写真を見せられ,こんな美しいものに人間のすべてが詰まってるのか,と生物化学教室に.しかし来る日も来る日も大腸菌の世話(そうしないとDNA調べられないんだからしゃあないやん).もう少し楽に人間のことを研究できないかと思っていた折,できたてホヤホヤの奈良先端科学技術大学院(通称NAIST)のことを知り,ようやくコンピュータが普及してきつつあった時代でもあり,コンピュータつこたら人間のことシミュレーションできるんちゃうかおもうて,まった畑違いの情報科学研究科に口先&筆先三寸で入学.選んだのは自然言語処理研究室.自然言語とは人間が話したり書いたりする言葉のことで,コンピュータ用の人工言語と区別するためにこんな不自然な言い方をしてる.言葉のことを研究したら,人間のことがわかるんじゃなかろうかと思ったのだが,人間が普段実際に使ってる言葉はあんまりにもむちゃくちゃで,コンピュータの手には負えない.そこで選んだ私の研究テーマは良い文章が書けるようにコンピュータが支援してあげようというもの.しかし私の興味はすでにそこになかった.授業で認知科学を取り,これからは認知科学だ!と思ってしまった.その授業を開講していたのが,米国から戻って来たばかりの中小路さん(先生とつけると怒られるので).様々なもののデザインを認知科学の立場から考えるという内容だった.まあ言ってみれば使う人の立場に立ってデザインしなさいということだが,当時のコンピュータ業界ではまだそんな考え方は斬新だった.で,とりあえず修士を終えて某大手システム開発会社に入ったが,2年後に社会人として中小路さんの研究室で博士号を取るために戻ってくる.それはさておき,会社で最初に任された仕事は所属した部署のホームページの開発.といっても企画をまとめて下請け業者に委託するだけだったけど.当時はまだホームページなんて珍しかったなあ.次が新しいオフィス環境の設計と評価.部長の代理で参加したセミナーがホームワークとか遠隔勤務といった,米国で流行り出したコンピュータネットワークを利用した新しい働き方で,新婚ホヤホヤの私にとって(というか仕事に行きたくないだけ?),自宅で仕事ができるなんて夢のようだった(職場まで自転車で30分くらいだったけど.しかも残業なんてほとんどせえへんかった).というわけでセミナーの報告がてら課長に,「こんなええ話がおまっせ」と相談に行くと,じゃやってみっか,君に取りまとめを任せるから,予算は◯◯円でいいかな?(えぇぇぇぇっっ!新入社員にそんなに!)という具合でできることになりました.まあバブリーな時代でした.で,当時働いていた西葛西と大阪支社に,大容量(といても今からするとちゃちい)ネットワークで結んだオフィスを作り,社会人として働きながらNAISTに博士号を取りに行くことが認められた私は大阪支社のオフィスに入ってオフィスの評価に携わりました.博士号のテーマは,これまた当時米国で産声をあげたナレッジマネジメント(知識管理)でした.遠隔間オフィスには知識共有が不可欠だと感じていたからです.無事に2年半で博士号を取得し,その半年後には大学の先生になっていたというわけです(どういうわけや!).あーまた長くなった.大学に職を得てからはまた続きで(はよ終われ!).

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