2009年5月19日火曜日

日本の教育を喩えると

ニュートン力学は絶対空間・絶対時間を前提に成り立っています。この前提故に「エーテル」という現実には存在しない媒質を仮定することになりました。日本の教育では教科書に書いてあることや教師の持っている「知識」が絶対に正しいということを前提に成り立っています。特に理科ではその傾向が強いと思います。しかし、ニュートン力学が相対性理論の出現により反証されたように、永久に真理であるなどと人間が保証できることはほとんどありません。現在正しいと多くの人に信じられていることでも、将来は覆される可能性があることを子供たちに知らせることが科学教育ではないかと思います。

正解のない教育

OECDが3年に一度実施する国際的な学力調査PISAにおいて、2000年と2003年ともに総合世界一だった国がフィンランドです。フィンランドにおいて教育を統括している国家教育委員会は「教育の目的は自立した国民を育てること」としています。

フィンランドの教育では子どもたちは「正解」を求められることはありません。たくさんの情報を子どもたち一人一人が、またグループで分類し、規則性や関連性を見つけ出していくという知識を獲得するまでのプロセスが重視されます。

つまりフィンランドの教育は、子どもたち一人一人に依存した相対的なものなのです。置かれている状況が異なればそこでの時間の流れも空間も異なることを前提とした相対性理論のようだと言えるでしょう。

だからフィンランドの教育では子どもたち一人一人が尊重されるです。日本のように「正解」を押し付けられることはないのです。しかしその分子どもたちは大変です。自分で情報を集め、考えなければならないからです。日本のように「正解」を理解するだけではだめなのです。

でも子どもたちにとってどちらが本当に子どもたちのためのことを考えた教育でしょうか?私はフィンランドの教育がとても自然なものだと思います。

ホンモノのゆとり教育

OECDが2000年から3年に一度、加盟国を含むおよそ50カ国あまりの国々の15歳児を対象に行っている学力調査があります。これはPISAと呼ばれ、2000年は読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの3分野のうち読解力をメインに調査が行われました。2003年はこれまでの3分野に問題解決力という分野が加わり、数学的リテラシーをメインに調査が行われました。そして今年は科学的リテラシーをメインに調査が行われます。

これまでの2回でいずれも総合トップでありすべての分野でトップグループに入り、しかも読解力では2位の国に統計的に有意な差をつけて単独トップだった国、それがフィンランドです。

しかし、フィンランドの義務教育課程における年間の授業時間数は、ゆとり教育を導入した日本よりもやや少ないくらいです。同じくトップグループにいる韓国の授業時間数はフィンランドの二倍近くになります。

現在日本では文部科学省を中心に、土曜日も授業をしてよいとか、削減した学習内容を元に戻すとかいったように、ゆとり教育の見直しが議論されています。なんだか形式だけの教育改革に思えてなりません。

フィンランドは本物のゆとり教育を実現しているように思います。

ゆとり教育の日本

私の勤務している大学で事件がありました。理数系の基礎科目の授業に対して一年生たちの連盟による投書があったのです。出された宿題のサポートを先生がしてくれない、自分たちは「ゆとり教育」で育ってきたからサポートなしに勉強できない、というような内容でした。

ゆとり教育の目標は「生きる力」を育てることだったのではないでしょうか?他人のサポートなしには勉強できない人間を育てるのが目的ではなかったはずです。

大学はまだよいです。4年もすれば彼らは出て行きますから。しかし、彼らを受け入れる社会は大変でしょう。私もIT関連の大手企業に5年間勤務していましたが、その間に受けた様々な研修は、彼らが相手では成立しないと思います。

私自身、大学に来てから毎年1年生向けの授業を担当してきましたが、これまで授業の前提としてきた学生のスキルが、今年はまったく前提にできないことを思い知らせれています。まず、「考える」ことを嫌がります。課題を出しても思いつきだけですませますし、情報を集めてくるにしてもインターネットを検索した結果をそのまま写すだけでまったく脈絡のない情報を提出して平然としています。

もちろんそんな学生だけではありません。大学に来て、いろいろなことの関係が見えてきたと喜んでいる学生もいますし、「考えるのは学生の特権」と頼もしいことを言う学生もいます。しかし、先のような学生が大学に現れてきたことに不安を感じてしまうのです。

カブ間違い

私が考察の対象としている「思いこみ」は、コミュニケーション・エラーを引き起こす「思いこみ」です。具体的手には以下のようなエラーです。

Aさんが大学生だった時のこと。Aさんは経営学部に所属していました。ある日、Aさんのアルバイト仲間の工学部生のBくんが、「親にオートバイを買うっていったら、『オートバイ買うなら、カブにしとけ』って言われたんだ」とAさんに言いました。「えっ?『株』って損するんじゃないの?」とAさんがBくんに言ったところ、Bくんは「損する?はぁっ?」と言ったなり、大爆笑。Bくんの親はオートバイを買うならHONDAのCub(カブ)にしろ、と言っていたのです。

Aさんは「カブ」という名前のオートバイがあることをまったく知りませんでした。したがって、オートバイ→HONDAのCubという連想ができず、オートバイv.s.株(Stock)という理解がなされてしまったのです。

後にAさんに詳しくこの時のことを聞きました。それによると、「オートバイは事故を起こしやすく危険」だから「親は株にしろと言った」、しかも「オートバイの値段は株の値段と同じ位だろう」という推論をしたのだそうです。しかし、「株も金銭的に損をする危険がある」と思い直し、あのような発言をしたのだそうです。

私たちが日常生活において話したり行動したりといった「行為」を行うためには、その前提となる「仮説」が必要です。Aさんの場合であれば「カブ=株券」という「仮説」に基づき、「株って損するんじゃないの?」という発言が出てきたわけです。この「仮説」がBくんの言っている文脈にそぐわなかったために、AさんはBくんの失笑を買ってしまったのです。私はこの「行為」の前提となる「仮説」が「思いこみ」であると考えています。つまり「思いこみ」は「失敗する行為(エラー)」を生み出す事もあれば、「成功する行為」につながることもあります。

しかし、「思いこみ」はエラーが生じてはじめてその存在が意識されます。ですので、Aさんを笑ったBくんも実は「思いこみ」を持っていたのです。それは、「カブ=HONDAのCub」という「仮説」です。しかも、この「仮説」をAさんも共有しているというさらなる「仮説」に基づいて話をしています。Aさんのエラーは、Bくんの「思いこみ」が原因でもあるのです。

このように、コミュニケーション・エラーは両者の「思いこみ」にずれがある時に生じます。「思いこみ」というコミュニケーションの前提をお互いに共有しなければコミュニケーションは成立しません。しかし、「思いこみ」はエラーが生じて初めて認識されるものです。どうすればよいのでしょうか?

このエピソードを例にとると、「カブ」という音声記号には様々な「仮説」をもっています。野菜の蕪、木の切り株、株式の株、体の下部、歌舞伎の歌舞、そしてHONDAのCubなどです。「カブ」という音声記号がこのような様々な「仮説」をもつことを、AさんもしくはBくんが意識できていれば、コミュニケーション・エラーは生じなかったでしょう。つまり、多様な「仮説」の可能性を常に意識しておくことが、コミュニケーション・エラーを防ぐ手だてだと思います。

思いこみと宇宙

私は「思いこみ」について研究していますが、最終的に明らかにしたいのは私たちの「意識」のメカニズムです。この「意識」と「宇宙」が深いところで関係していそうだ、というのが最近の私の考察です。
カントの「実践理性批判」の文中だったと思いますが、「嗚呼、感嘆しても感嘆しても止まぬものは、天上の星の輝きと、我が心の内なる道徳律」という文言があります。星の輝きの美しさと、私たち人間の道徳の美しさとを対比したものだと思います。しかし実は、輝く星を「美しい」と感じる主体も、道徳律を「美しい」と感じる主体も、そして道徳律を生み出しているものも、すべては私たちの「心」であり「意識」です。つまり、「宇宙」を私たちがどのように理解しているかについて考察することは、私たちの「意識」を考察することにつながると思うのです。
では、なぜ「宇宙」なのか、ということですが、それは私たち人間が人間らしい「意識」を持って以来、常に関心を持ち続け、ミクロからマクロまで、そして私たち人間を含む世界全体として、思考の対象として哲学や科学を生み出し、私たちの「認識」を高め続けてきた対象だからです。
「宇宙」を認識するアプローチには、大きく二つあるように思います。「物理学」と「宗教」です。このブログでは前者の宇宙観について考察したいと思います。
というのも、もしかしたら「宇宙」の認識については後者の方が進んでいるのかもしれません。しかし、その認識は万人が納得できるものにはなっていません。そこで、誰もが理性で納得できる科学的な根拠に基づく宇宙像を考察することによって、そのような宇宙観に辿り着いた私たちの「意識」のメカニズムの一端が分かるのではないかと思っています。

子ヤギの上?

さて、皆さんはこんな歌をご存知ですね。

♫アルプスいちまんじゃく
♫こや○のうーえで
♫アルペンおどりを
♫さあおどりましょ

では○に入る文字はなんでしょうか?「ぎ」だと思い込んでいた人はいませんか?正しくは「り」ですね。「こやり=小槍」で山頂付近の小さく尖ったあたりということなのだそうです。インターネットで調べてみると、このような間違った「思いこみ」をしていた人が多いことに気づきます。
ではどうしてこのような「思いこみ」、すなわち「仮説」をこの歌に適用してしまうのでしょう?私の推測はこうです。アルプスといって思い浮かべるのは「アルプスの少女ハイジ」、そのハイジが可愛がっているのが子ヤギのゆきちゃん。そのような連想から「子ヤギの上で踊る」という「思いこみ」が生まれたのではないでしょうか?
この「思いこみ」の場合、「カブの思いこみ」とは異なり、音声記号としての「コヤリ」のもつ多様な「仮説」が原因ではありません。「コヤリ」と「コヤギ」、確かに音声上は似てはいますが、清音と濁音は大きな違いです。耳では「コヤリ」と正しく認識しているにも関わらず、意味を捉えるために脳が「コヤギ」にしてしまっていると思われます。
ではなぜそのようなことをしてしまうのかと言えば、「カブの思いこみ」と同様に、「コヤリ」という言葉を知らず、そのままでは歌詞を理解できないためです。つまり人間の脳は、何か理解できないことがあり、少し「事実」を歪めれば意味が通るような状況では、無意識の内に「事実」を歪めてしまう傾向があると推測します。この事例のようなコミュニケーション・エラーの場合、それを防ぐ手だては、「事実」をきちんと認識することでしょう。しかし、人間は得てして独りよがりになりがちですので、なかなか「事実」をありのままに見ることができないように思います。

隠された次元

Warped Passages - Unraveling the mysteries of the universe’s hidden dimensions (Lisa Randall, HarperCollins Publishers, 2005)という本を今、読んでいます。
私たち人間は三次元の世界に生きています。このことは、前後、左右、上下の三方向には、私たちはなんとか移動できるという意味です。「時間」という次元もありますが、過去にさかのぼることはまだできませんので、私たちが自由になるのは三次元空間ということになります。しかし、アインシュタインの相対性理論によれば、時間と空間とは切り離すことができないそうです。たしかに空間を移動するには必ず時間がかかります。つまり、私たちが通常「認識」できるのは三次元空間と時間の一緒になった「時空間」ということになります。
私たち人間の多くは、この三次元空間プラス時間の「時空間」を前提として考え、行動しています。つまり私たちの多くの宇宙観は三次元プラス時間です。しかし、宇宙が私たちが認識できるだけの次元しかないと考える科学的根拠は何もありません。それこそ「思いこみ」です。このLisa Randallの本は、そうした私たちの宇宙に対する「思いこみ」を科学的に解消してくれる本だと思います。
日本をはじめとする先進国の多くの社会では、私たち人間は三次元プラス時間の宇宙観をあまりに絶対視ししすぎているように思います。つまり物質と時間を絶対のものとした考えや行動、価値観などが生み出した社会です。この物質と時間を自由にできる「道具」がお金です。もちろん、いくらお金があっても時間をさかのぼることはできませんが、お金を出せば空間を早く移動することができます。まるで、ミヒャエル・エンデの「モモ」の中で、お金で時間が買えるような社会です。しかし、愛や家族、好奇心など、お金では自由にならない、三次元プラス時間を超えたものもあります。こうした、お金ではどうにもならない「現実的」ではないものが軽視されていることが、私たち人間にとって住みづらい社会を作ってしまっているように感じます。この本を読むことで、三次元プラス時間の「思いこみ」から自由になりたいものだと思います。

シャンパンと思いこみ

最近シャンパンにはまっている友人がこんな話をしていました。数年前に家族でパリを旅行した時、アラン・デュカスという有名なフレンチ・シェフの弟子が経営しているフレンチ・レストランで食事をしたのが、シャンパンとの出会いだ、というのです。
料理はリヨン風で、言ってみればエビのすり身団子なのだそうですが、これまで味わったことのない美味しさだったそうです。しかし、注文したシャンパンを、すり身団子の後に口に含むと、先ほどのすり身団子とは似ても似つかぬ、さらに奥深い味になったのだそうです。友人はウェイターにそのシャンパンの銘柄を訊いたそうですが、教えてもらえなかったそうです。帰国後も、あのシャンパンの味が忘れられず、いろいろ調べ回ったら、すっかりシャンパン通になっていた、ということのようです。
調べて分かったことは、その店にシャンパンを提供しているメーカーはA社とB社のいずれからしい、ということだったそうです。凝り性の友人はさらに調べ、いろいろなシャンパンを飲み比べ、B社ではないかと推測したそうです。そして、ある日、友人は、偶然にも、日本通のB社の社長と札幌で会う機会を得たのだそうです。その際、その社長がニヤニヤしてはぐらかすようなことを言ったから、間違いない、と誇らしげに友人は私に話してくれました。そして、確かに一流の店は決して安くはないが、本物に触れることは大事な出会いを生むのだ、と締めくくりました。
このエピソードにおいて、この友人にとって「大事な出会い」とはなんだったのでしょう?このエピソードにどのような「意味」があるのでしょう?
多くの人に秘密にされている、「その店のシャンパンはB社のもの」という真実(?)に辿り着いたことでしょうか?確かにこのことは友人にとって意味のあることだったでしょう。しかし、この真実は、その店の人たちや、実際にその店にシャンパンを提供している会社の人たちが当然既に知っていることです。言ってみれば、多くの入試問題のように「解答」のある問題を解いた(解いたと思っている)に過ぎません。
ではその「解答」に至るまでの「プロセス」に意味があったのでしょうか?確かに友人はシャンパンの銘柄や産地などに詳しくなりました。しかし、シャンパンは、それを引き立て、相乗効果を生む料理があって初めて深い味をもつものなわけです。したがって、シャンパンに関する友人の多くの情報は「蘊蓄」以上のものではないでしょう。
結局のところ、この友人のエピソードにおいて本当に意味のあることは、その「結果」や「プロセス」ではなく、美味しさを相互に引き立て合うことのできる「優れた料理」と「優れたシャンパン」とが出会うことによって、「1+1」が2よりもはるかに大きくなるという、友人の「気づき」ではないかと思うのです。料理とシャンパンを別々に口に含んでも、それらを同時に口に含んだ時のような「美味しさ」は生まれません。二つの物事が合わさった全体として「美味しさ」という「意味」をもつのであって、個々を切り離した「断片」を組み合わせても「意味」は失われるということでしょう。
これはまさに「ゲシュタルト」です。音と音の組み合わせの全体が「優れた音楽」を生み、色と色の組み合わせの全体が「優れた絵画」を生み、空間と空間の組み合わせの全体が「優れた建築」を生むように、「優れた料理」や「優れたシャンパン」もゲシュタルト的な関係をもつのでしょう。では、こうしたゲシュタルトの認識は、私たちのどのような「意識」の働きなのでしょうか?

思いこみとフィンランドの教育

私の定義では「思いこみ」はコミュニケーションの前提になる「仮説」ですので、「思いこみ」なくしてコミュニケーションはあり得ません。したがって、コミュニケーションに失敗しないよう「適切な思いこみ」をもつことが重要です。フィンランドは、子どもたちが「適切な思いこみ」をもてるような教育をしていると、私は考えています。
これまで「思いこみ」による失敗事例で見てきたように、「適切な思いこみ」をもつためには、(1)事実をありのままに認識する、(2)できるだけ多くの可能性を考える、ことが必要です。フィンランドはこの二つのことを教育の根幹にもっていると思います。
まず、(1)事実をありのままに認識する、について私が実際にフィンランドで見聞きしてきたことや、フィンランドからの留学生に聞いたことに基づき説明します。
フィンランドでは特に小学校の低学年において自然体験を重視します。フィンランドは森と湖の国と言われるように、自然が豊かです。そしてフィンランド人は特に森を大事にしています。小学校1年生の「自然」という科目の最初では、「森に行こう」というのがテーマです。子どもたちは森に行っていろいろな形や色の葉っぱや石を広い、それらを分類します。この際、先生は子どもたちが自由に分類するのを妨げないそうです。葉っぱであれば、一応、針葉樹と広葉樹の葉っぱの違いを学ぶことになっているそうですが、そういう分類を先生が押し付けることはしないそうです。そのかわり先生は子どもたちに”Miksi?(なぜ?)”という質問を頻繁に投げかけるのだそうです。このMiksiによって、子どもたちは単なる「思いこみ」ではなく、事実を見据えることを迫られます。
また、フィンランドはOECDのPISAという国際学力調査で世界一を維持していることで有名になりましたが、特に読解力の高さは他国の追随を許しません。日本でも、フィンランドの小学校で実際に使われている国語の教科書を翻訳したものが販売されています。この教科書のいたるところに事実をきちんと認識するための工夫があります。それは、たとえば「夏休みに楽しかったこと」というお題に対して、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」「なぜ」「どのように」といった視点から説明を求めるのです。フィンランドの読解力の高さは読書量の多さにある(OECDの調べでは人口に対する図書館数、年間の国民一人あたりの図書貸し出し数がともに世界一だそうです)と言われますが、単に本をたくさん読むだけではなく、言葉によって「事実」を適切に認識し、かつ伝える訓練を幼いころから積んでいることも大事な要因だと思います。
次に、(2)できるだけ多くの可能性を考える、についてです。フィンランドの教育には、教科や科目を問わず、頻繁に出てくる思考方法があります。フィンランド語では”Ajatus Karta(アヤトゥス・カルタ)”と呼ばれています。日本ではコンセプト・マップ、概念地図法などと呼ばれています。紙の中心に知りたい言葉を書き、そこから関係する言葉をどんどんつなげていくという方法です。この方法は別にフィンランドの発明ではありませんが、フィンランドの教育ではこの方法を積極的に取り入れています。たとえば、先ほどの例で言えば、森で葉っぱを拾って分類した後に、「葉っぱ」という言葉を中心にして、分かったことが知っていることをカルタにまとめていくとか、文章を読んで理解したことをカルタにまとめたり、逆に物語を創作するためにカルタを使ったりと、大活躍の方法なのです。先生はここでもまた子どもたちに”Miksi?”
と詰め寄りますが、一方で、できるだけいろいろな視点から発想を広げるよう指導するそうです。つまり一つの事柄について常に多様な視点から見る姿勢が子どもたちに植え付けられるのです。
以上のことからフィンランドの学校は「失敗する思いこみ」を子どもたちがもたないような教育をしていると私は考えています。

知識観の違い

5年ほど前に初めてフィンランドを訪れた時のこと。日本の高校で生物を教えていた元教師と一緒にヘルシンキ近郊の中学校を訪問し、2年生の生物の授業を参観させていただきました。その日の授業のテーマは腎臓の機能でした。20名ほどの生徒たちが、一人だったり、二人で机を向き合わせたり、4人ほどのグループになったりして、それぞれA4用紙に何やら一生懸命書き込んでいます。その用紙を覗き込むと、腎臓全体の模式図、ボーマン曩の模式図がプリントされています。所々に番号が振ってあり、それぞれの番号について、教科書やインターネットなどで調べたことを書き込んでいたのです。
それを見ていた元生物教員は不満そうでした。そして、授業終了後にその授業を担当していた若い男性教師を捕まえ、「なぜ肉屋などからブタの腎臓をもらってきて、食紅で色をつけた水を流して込んで見せないんだ。そうすれば赤い水が透明になって出てくるから、腎臓の濾過機能が一目瞭然で、子どもたちの学ぶ意欲を引き出せる。」と言ったのです。その言葉に対してフィンランドの生物教師は、”Your way is TEACHING, NOT LEARNING.”と言い放ったのです。
つまりこういうことだと思います。この日本の元生物教師は「腎臓は濾過機能をもつ」という「正解」をもっていて、その「正解」を子どもたちに見せたに過ぎないのに対して、フィンランドの生物教師は腎臓がどういう機能をもっているのかを子どもたち自らに考えさせている、ということです。「腎臓が濾過機能をもつ」ということは一つの可能性であり、すべてではないでしょう。フィンランドの教育では知識は固定化されたものではないことを教えているようです。様々な「事実」や「情報」に基づき論理的に考えた結論として「知識」が生まれるということでしょう。科学・技術が進歩すれば「知識」の元になっている「事実」や「情報」が変化します。そうすれば当然「知識」も変わってきます。冥王星が惑星からはずされたように。こうした知識観の違いが、日本とフィンランドの教育の違いの根底にあるように思います。

思いこみと生産性

私がそもそも「思いこみ」について研究するようになったきっかけは、以前勤めていた会社での研究です。私は大規模なコンピュータ・システムを開発している企業に勤めていました。コンピュータ・システムの開発に携わる人たちをシステム・エンジニア、すなわちSEと言います。大規模なシステム開発になると多種多様な仕事があり、その役割に応じて様々なSEが分業しています。開発工程に沿っておおざっぱに分けると、企画SE、営業SE、設計SE、開発SE、運用SE、評価SEなどです。こうした様々な仕事を受け持つSEの方々は日々様々な「問題」に直面します。自分だけで解決できない場合には、誰かに「質問」することになります。しかし、各人の知っている人に「質問」するのは限界がありますし、「質問」され、「回答」する人は自分の仕事を中断しなければなりませんので、生産性が落ちてしまいます。そこで私のいた会社ではSEからの「質問」を集中して受け付け「回答」する組織、ヘルプデスクを設置していました。私の研究というのは、このヘルプデスクの効率化を図ることです。
まず私が調べたのは時間的な効率と回答の質における効率の二つの視点から以下の二点について調べました。
(1)質問したSEが指定した回答期日を超える回答の比率
(2)質問したSEによる受け取った回答の評価
調査した質問と回答の数は約1万組です。前者については約8割の質問について指定された回答期日までに回答がなされていました。後者については、「期待以上」「期待通り」「期待以下」の三択でSEに評価してもらい、それぞれおおよそ、3割、5割、2割の比率でした。(1)と(2)の相関関係を調べたところ、回答期日を超えた回答ほど「期待以下」と評価される比率が統計的に有意に高いことが分かりました。
そこで次に、「期待以上」と評価された回答と「期待以下」と評価された回答とについて、その差を調べることにしました。しかし予想に反して、両者の内容には質・量ともに差がありませんでした。両者で分量のばらつきに差があるわけでもなく、どちらも質問に照らし合わせて十分な回答です。ヘルプデスクでは、質問を受けると担当者が1名割り当てられます。この担当者が回答案を作成すると、ヘルプデスクのメンバー全員(約20名)が閲覧できる掲示板に掲載します。ここでメンバー全員のチェックが入り、担当者は最終回答を仕上げます。最終的にはヘルプデスクの責任者がその回答を良しとしなければ、回答は返されません。つまり、回答の質に差が出ることは考えにくいのです。
そこで、問題は「質問」の方にあるのだろうと考えました。まずどんなことを質問しているのか調べたところ、以下の事柄に大別できます。
製品情報:開発しているシステムに利用できるアプリケーションについて
機能要求:
機能実現:
問題対処:

経験と思いこみ

フィンランドの教育に関する調査をはじめて五度目の訪問の際、ずっと憧れていたシリヤラインに乗る機会がありました。シリヤラインは一日に一度、ヘルシンキとストックホルムの間を往来する巨大な船です。凍った海をものともせず夕日に消えて行く姿をよくヘルシンキ湾から眺めていました。
まあ、その感想はさておき、シリヤラインが到着するのはストックホルムの港です。そこからバスでストックホルム中央駅まで移動し、地下鉄でホテルに行かねばなりません。同僚と二人の調査旅行だったのですが、中央駅で二人ともさんざん迷いました。中央駅は地上にバスのターミナル、地下一階から三階までに国鉄や地下鉄の駅から入っている巨大な駅です。インフォメーションで地下鉄の場所を訊くのですが、教えてもらった通りに行っても見つからず、大変な苦労をして地下鉄に乗りました。
数日後、今度は中央駅から国鉄でオスロに向かうため、再び地下鉄で中央駅へと向かいます。さんざん苦労したので、数日前に乗った車両と同じところに乗りました。さあ、中央駅に着いて、数日前にそこに辿り着いた時とは逆の道を辿ろうとしたところ、私は国鉄駅の方向を指示していると思われる標識を見つけたのです。スウェーデン語は分かりませんが、”STATION”に似た綴りです。スウェーデン語はドイツ語に近く、ドイツ語は英語と同じゲルマン系の言語だったな、などと考え、同僚にそのことを伝えます。しかし、数日前の苦労が身にしみている同僚は、元来た道を戻ることを、頑として譲りません。私も確たる根拠もありませんので、一応、その標識の方角だけをインプットして、同僚と元来た道を戻る事にしました。
しかし、所詮は迷いながら来た道です。地上に出てみるとまったく見覚えのない風景が眼前にあります。地下を彷徨うよりは地上で、駅の大きな建物を見つけて歩く方が早かろうということで、地上へ出ました。しかし、ストックホルムは高い建物の多い大都会。簡単に駅の建物は見つかりません。私の頭にインプットされたはずの方角を頼りに、何とか港からバスで着いたバスターミナルへと行き着きました。
この出来事から学んだ事は、経験によっても「思いこみ」が生まれるということです。我々の場合、国鉄駅に辿り着くことが目的だったはずですが、いたい経験から、元来た場所に戻ることへと目的がすり替わってしまったのです。経験に頼らず、その時、その場の目的をきちんと意識して、その時、その場にある情報をきちんと読み取ることが失敗を回避するための方法だと悟りました。

聖書とゲシュタルト

昨日と一昨日、小樽に行ってきました。札幌からわざわざ泊まりで行くほどの距離ではないのですが、古い町並みの残る小樽をゆっくり、じっくり散策したいと思ったのです。
昨日は日曜日。地図を見ると山手に「富岡教会」というものがあるようです。神社仏閣や教会が好きな私はミサを期待してその教会に向かいました。
到着するとちょうどミサが始まったところ。入り口の前で入ろうかどうかと迷っていたところ、信者の方がどうぞどうぞと入れてくれました。
玄関で靴を脱ぎ、二階へ行き、後ろの空いている席につきます。玄関でもらった小さくて薄い冊子を見ながら、周囲に併せてミサに参加しました。
このミサでは聖書から三つの話が引用され、二つ目のコリント書について神父さんの講話がありました。このコリント書にある文言に私はいたく感銘を受けました。
講話では、このコリント書の一節は「神の愛」について語っており、「愛」は「希望」や「信仰」に勝るものであると神父さんが説かれました。
しかし、私が非常に感銘を受けたのは、「知識や信仰は一部にすぎず、完全なる全体が現れた時、それらの一部は消滅する」というくだりです。「完全なる全体」とは「神の愛」を指しているのだと思います。この「全体」と「部分」との関係性はまさに「ゲシュタルト」だと思います。キリスト教そのものにさほど関心はなかったのですが、この「偶然の発見」を機に、聖書を勉強してみようかと思った次第です。

ゲシュタルト・リテラシ

「ゲシュタルト」とはあるまとまった一つのもの(全体)のことであり、部分を超えた全体性をもつとともに、その全体性によって部分の意味や機能が規定されるという特徴をもつ上の左側の図を見ると、白い目地の交差する部分がグレーに見えるであろう。このグレーに見えることも含めた図全体に対する認知が「ゲシュタルト」である。一方、同じ図の一部だけを切り出したのが右側の図である。白い目地の交差部分はほとんど白に見えるであろう。グレーに見えていたのは、我々の認知が図全体の構造から影響を受けていたためである。このことは、逆に、部分にばかり注目すると全体を見失うことを意味する。これが「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれる現象である。
私たちは、上の左側のように、ある構造に対して、それを超えた全体を見ることのできる、いわば「ゲシュタルト認知能力」をもっている。この能力が、私たちの創造性や閃きを生み出していると考えられる。しかし、偏った情報から部分的なゲシュタルトを見いだしてしまうと、ゲシュタルト崩壊に陥り、間違った判断や理解をしてしまう。そして一度ゲシュタルトを認知してしまうと、そこから自由になることは難しい。したがって、私たちは、きちんと全体(ゲシュタルト)を認知できるような「ゲシュタルト・リテラシー」を身につけなければならない。
人は自分の関心のある情報しか認知できない傾向がる(Egocentric)。情報過多の現代では個人の関心ある情報が際限なく存在する。したがって、際限なく自分のEgocentricな情報収集を続けられる時代である。現代の社会問題の多くは、こうした自分中心の(Egocentric)考え方しかできない人たちによって引き起こされているように思える。人が、部分を超えた全体性を理解し、そこから部分同士の関係を見いだすというゲシュタルト・リテラシーを適切に働かせることができれば、様々な社会問題を解決でき、サスティナブルな社会を創造できるであろう。

ゲシュタルト心理学

ゲシュタルト心理学のはじまりは、Max Wertheimerによる仮現運動(驚き盤運動)の研究です。たとえば、一本の線がある場所に短時間だけ示され、その直後に別の一本の線が別の場所に短時間だけ示されると、人間は、線が移動したと知覚するそうです。これが仮現運動です。Wertheimer以前の心理学では、この知覚現象は人間の「錯覚」だとされてきました。
その反証の一つとして、Wertheimerは、仮現運動が実際の運動を同じものであることを示しました。実際の運動では、たとえば一本の線が実際に移動している様子をある一定時間見続けた人は、見続けた後に静止した線を見ると、それまでの運動とは反対方向にその静止した線が動くように見える(運動の負の残像)。このような現象が仮現運動でも起こることを、Wertherimerは示した。Wertherimerとは別に、生理学者のExnerも同様の証拠を示した。
このことは、アニメの登場人物たちが実際に動いているように見えるのと同じです。アニメの登場人物たちは静止画が素早く入れ替わることにより動いているように見えます。このようなアニメの原理を知っているからといって、アニメの登場人物たちが動いていないように見えるわけではありません。人が実世界の中で実際に動くことと、アニメの登場人物たちが動くこととは、私たちの知覚にとってはいずれも「現実」なのです。
ではなぜアニメを実際に動いていると私たちは認識してしまうのか、というと、静止画と次の静止画とは独立のものではなく、お互いに何らかの影響を及ぼし合っている(相互作用)からです。従来の心理学では、ある局所的な事象はその周囲に現れるものから独立だと見なされていました。しかしゲシュタルト心理学の出現により、ある状況に対して私たちが個々に知覚しているモノたちは相互に関係し合っていることが示された。上に示した図形を見てください。渦が見えます。しかし、実際には同心円の集まりなのです。このように私たちの知覚は、個々の刺激を集めたものとは異なるものを実際には知覚しているのです。

ゲシュタルト心理学

「ゲシタルト心理学」( ダヴィッド・カッツ著、武政太郎・浅見千鶴子訳、 新書館、1989、第7刷)の第26章動物心理学に以下のような話が紹介されています。
ヒメバチは昆虫の幼虫を麻痺状態にさせ、巣穴まで運び、幼虫の体内に卵を産みつけます。ヒメバチは巣穴まで幼虫を運ぶといったん巣穴の近くに幼虫を置き、巣穴に入って巣穴の準備が出来ているかどうか確かめてから幼虫を巣穴に運び入れます。ひめばちが巣穴を確認している間に幼虫を巣穴から少し遠ざけると、ヒメバチはしばらく幼虫を探し、見つけると巣穴の近くまで運びます。そしてまた巣穴を確認しに行くのだそうです。
このようなヒメバチの一連の動作は強固なゲシュタルトを形成しているため、それを破ることはヒメバチにはできません。しかし、ヒメバチを愚かだと片付けてしまえるでしょうか?
ヒトはこうした本能というゲシュタルトから開放されるだけの知性を備えているわけですが、私も含め人間は同じ過ちをたびたび繰り返してしまいます。やはり人間も、ゲシュタルトという本能の籠から自由になることは容易ではないのでしょう。

無限の欲

仏教では、比較できるもの(相対化できるもの)は無限の欲を生み出す、という戒めがあります。私たち凡人はなにかとモノを集めたがりますし、お金もたくさん欲しい、美味しいものを食べたい、楽な生活がしたい、と思っています。これらはすべて「比較できるもの」だからでしょう。
ではなぜ「比較できるもの」は私たちに無限の欲を引き起こしてしまうのでしょう?私は、これは「ゲシュタルト」の為せるところだと思うのです。
ゲシュタルトの基本的な性質の一つに「閉じる」というものがあります。円の一部がちょこっと欠けていても、私たちはちゃんとした円だと認識します。私たちはいろいろなものに対して、閉ざそう、閉ざそうという無意識の意志が働いています。
たとえば、私はムーミン・グッズを集めていますが、新しいグッズを見るとやっぱり欲しくなります。これは、それまで自分が集めたグッズという「まとまり」が、新しいグッズの出現により「開いて」しまうからです。この開いてしまったまとまりを、閉ざそう、閉ざそうとする意識の働きが欲を生み出しています。したがって、比較できるものは無限の欲を生み出すのです。

閉じたがる脳

近年、意識に関する研究が盛んです。認知科学や神経科学、脳科学、心理学など様々な分野で研究が進んでいます。しかし、「意識」というものが本当にあるのでしょうか?私は、「意識」とは人間の幻想にすぎないのではないかと思っています。
では、外界を認知したり、心の動きを認識したり、思考したり、行動したり、といったことは、私たち人間の何が司っているのか?それは、私たちの脳が閉ざそうとする、すなわち一つのまとまり(ゲシュタルト)を認識しようとする生理学的な傾向と、神経科学的な記憶との所産だと私は考えています。
私たちは日常生活の中で絶えず外界の様々なモノと接しています。そうした様々なモノは、見方によってそれぞれが膨大な情報をもっています。しかし、そうした膨大な情報を私たち人間はいっぺんに認識することはできません。私たちが置かれている、その時、その場における私たちの内面の状態に適した情報だけを認識します。そのモノを認識するには記憶が必要であり、私たちの内面の状態に適した情報だけを認識することを、「閉じる」と私は呼んでいます。
この「閉じ方」、すなわち外界の認識の仕方にはいくつかのパターンがあるように思います。人の性格と言ってもよいようなパターンです。たとえば、自らの経験で閉じようとする人、規則や原則で閉じようとする人、論理で閉じようとする人、快・不快といった感情で閉じようとする人、などです。こうした閉じ方のパターンは、ある人はあるパターンしかもっていないということではなく、すべてもっているのですが、人によってどのパターンが強く出るかが異なるように思います。
そして「閉じている状態」は、ゲシュタルト心理学におけるプレグナンツをもっています。たとえば、私たちが道を歩いている時に、他者が自分の前を横切ると不快に感じると思います。なぜ私たちが不快に感じるのかというと、私たちは歩くことの目的地と今の自分との間に「よい曲線」を認識しており、その「よい曲線」を他者が横切るために、「よい曲線」が断ち切られるからだと解釈できます。このような目的と自分の今の状態との間の「よい曲線」は、私たちの置かれている外界と私たちの内面との閉じた関係を築いています。また、自分と趣味が「類似」していると、その相手との閉じた関係、すなわち好意や好感が生まれます。そしてその閉じた関係に基づき相手を認識しようとします。つまり、相手も自分と同じ考え、好みをもっているという「思いこみ」を押し付けがちです。そして自分とは異なる面が見えても見ないふりをしたり、突然、好意が憎しみに変わることもあります。
このように、人間にとっては「閉じた状態」が好ましいのです。親しい人の死が悲しいのは、それまでその人と築いてきた「閉じた状態」が開いてしまうからです。このような「閉じた状態」が開いた時にそれを「閉じよう」とする生理学的な反応を「意識」と呼んでいるのではないかと思うのです。

クオリアとゲシュタルト

ラマチャンドランの「脳の中の幽霊」(角川書店)を読みました。自分の体という認識やモノが見えるという感覚はすべて脳が作り出したものだという「事実」を、様々なシンドローム(症候群)をもつ患者の脳を調べた「事実」から明快に論じています。またそうした「事実」を確認できる簡単な実験がたくさんあり、家族で楽しみました。
そうした「事実」の多くはゲシュタルトの法則を満たしているようです。たとえばテーブルの下に左手を隠し、他の人にその左手とテーブルの上を同時に同じリズムで指で叩いてもらうと、あたかもテーブルから叩かれた感触が伝わってくるように錯覚します。この事実は、ゲシュタルトの近接の法則を満たしています。また、腕を失った人が幻の腕の痛みに悩まされる「幻肢」を治すために、残っている腕を鏡に投影し、あたかも失った腕があるかのように脳を錯覚させることが有効だそうです。この事実はゲシュタルトの対称の法則に他なりません。
本書の最後では、これから解決される問題としてクオリア(主観)が挙げられ、検証されています。クオリアという言葉は最近よく耳にします。「リンゴの赤さ」がよく引き合いに出されます。自分という意識(自意識)がどこから来ているのか、ということが問題のようです。このクオリア問題に対しては、クオリアは物理的な肉体から切り離された次元にあるという考えと、脳を含めた物理的な肉体から生じるという考えとに、大きく別れるようです。私自身はこの本を読み、クオリアもしくは意識は、記憶(脳細胞の刺激パターン)のゲシュタルトだと強く再認識しました。これから脳に関する事実とゲシュタルトとの関連性を調べていこうと思います。

無分別のススメ

「分類」に関する認知科学的な研究では、Basic Levelというものがあると指摘されています。例えば「犬」「猫」「ブタ」「木」などとたレベルの分類です。このレベルの分類は、幼児が真っ先に学習するレベルであり、表す言葉も短く、もっと頻繁に使われ、このレベルを基準にして様々なレベルの分類が生まれるとされます。
もっとも頻繁に使われる分類であるために、幼児が真っ先に学習するのか?それとも、幼児が真っ先に学習する分類であるために、もっとも頻繁に使われるのか?いずれにしても「分類」を認知してしまう性質を、人は生まれながらにもっていると言えます。
「分類」は物事を分けることです。「分別」もまた「分けて別れること」です。分別があることは良しとされ、無分別は社会から敬遠されます。物事を詳細に分類することで科学・技術は発展してきました。思考で扱う単位が細かくなればなるほど、論理的・科学的思考が精緻になります。こうした精緻な思考によって、人類は進歩してきたと言えるでしょう。
しかし分別があることが本当に良いことなのでしょうか?自分と他人を分け、自国と他国を分け、敵と味方を分け、勝ちと負けを分け。このような「分ける」ことは、日常の些細な喧嘩から世界規模の戦争まで生み出しています。また、「これはこうだ」と分類を決めつけてしまったがために、人間は様々なエラーを犯します。
仏教では「分別」はよろしくないことです。仏の悟りは空性、すなわちすべての物事がつながっていることを見抜くことです。したがって、これはこれ、あれはあれ、というように分けてしまう、すなわち物事同士のつながりを断ち切ってしまってはだめなのです。仏教では無分別が尊ばれます。
「無分別」を支援すること。それが今後の研究テーマです。

2009年5月12日火曜日

歳の話

先日の日曜日は,近所に住んでいる従姉のマンションに夕飯を呼ばれ,家族で行ってきました.奄美大島に住んでいる伯母さんが来ているから宴会しようという企画です.従姉はチビちゃんという大きなパピヨンを飼っていて,子どもたちはチビちゃんを散歩に連れて行ったり,遊んだり(遊ばれたり?)するのが楽しみ.従姉のお兄さん家族も来て,それは賑やかでした.
そんな宴会の報告をなぜか,滅多に連絡しない母にメールをしたところ,翌朝,つまり昨日の朝,母からメールが来て,父のことで奄美のおばちゃんに聞きたいことがあるから至急,従姉の電話番号を教えてくれという.今更出生の秘密か?などとくだらんことを思ったが,昨日は研究費申請の〆切り間際でそんなことはすぐに忘れてた.すると昼頃,従姉からメールがあり,母は昨夜奇怪な行動をとった父について,看護士のおばちゃんに聞いたのだそうだ.
病院の検査によれば,肝性脳症らしい.父はかなり前から肝臓が悪かったのだが,肝臓で解毒されなかった血液が脳に回り,奇怪な行動につながったようだ.肝性脳症は肝不全の度合いによって症状が異なり,父のような初期症状から,最悪は昏睡状態,そして死に至る.初期症状の段階で適切な処置を取る,つまり有毒なアンモニアを発生させるタンパク質,特に動物性タンパク質の摂取を控えるなどが必要だ.とりあえず数日間は入院とのこと.
と思ったら,今朝また母からメールがあり,今日退院するとのこと.ホンマにええんかと思いつつ,これまで何度か倒れながら,そのつど強靭な生命力というより意志力で回復してきた父なので,まあ今回も大丈夫だろうとは思う.しかし,自分がもう40歳間近であり,父もまだ若いとはいえ,60歳も半ば.そろそろきちんと親の老後や死について考えておくべき時かもしれない.

2009年5月8日金曜日

深イイ話

昨夜大学院のゼミを終えて帰宅すると,妻が「今日はいいことがあったんだ♡」というので,こういう時は大抵,道ばたで5円玉を拾ったとか,お釣りが10円多かったとか,そういう話なので,「今度は500円玉でも拾ったのか?」というと,「違う(怒)!もっと深イイ話!」なのだそうだ.
夕方,我が家の子どもたちは,お風呂掃除とカーテン閉めを交代ですることになっているのだが,昨日は運悪く,ご機嫌斜めな娘がお風呂当番.「ぜったいやらない!」と娘がダダをこねていると,息子が「代わってあげようか?ぼくは今日も明日もお風呂でいいよ.」と言ったのだという.この一言で,娘は自分がお風呂をすることを決心し,機嫌もなおったのだ.
これまでの息子はこんなことを言うことはなかったので,妻はいたく感激して,「あんたの一言で家族は救われた」(ちょっと大袈裟や)と,娘がお風呂掃除をしている間に息子を褒めたのであった.かなりジコチューな息子なのだが,少しずつ周囲が見えるようになり,自分の気持ちをコントロールできるようになってきたんだな,私も喜び,昨夜はビールを飲み過ぎました(毎晩や!).